中華人民共和国(甘粛省)
敦煌 |
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甘粛(かんしゅく)省では敦煌(とんこう)を観光します。 |
柳園南駅 |
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蘭新高速鉄道では敦煌の最寄り駅は柳園(りゅうえん)南駅。 |
柳園南駅 |
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柳園南駅の駅舎風景。
写真をクリックして下さい。 |
敦煌博物館 |
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ここは敦煌博物館。 |
敦煌博物館 |
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さて博物館へと向かおうとした所、駐車場からの博物館への通路が閉じられていた。
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党河 |
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敦煌市内を流れる党河(とうが)、その党河に設けられた堰。
写真をクリックして下さい。 |
党河 |
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党河に架かる白馬塔大橋の風景。 |
敦煌市内 |
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市内を散策。 |
敦煌市内 |
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三輪バイクに乗る敦煌の街の家族。 |
敦煌市内 |
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大通りから少し外れた通りの風景。 |
敦煌市内 |
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裏路地の風景。 |
敦煌市内 |
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三輪バイクが多い。
写真をクリックして下さい。 |
沙洲市場 |
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敦煌夜市とある。 |
沙洲市場 |
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露天商が軒を連ね、食べ物屋やアクセサリーの店、土産物屋などが並ぶ。 |
沙洲市場 |
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夜市の名の如く、夕方から活況を呈する。
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沙洲市場 |
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日没近く、電燈が灯き始めた頃が最も雰囲気があって、とてもよろしい。
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沙洲市場 |
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置物の店。 |
沙洲市場 |
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アクセサリーの店。 |
沙洲市場 |
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こちらはスパイス、香辛料の店。 |
沙洲市場 |
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ドライフルーツ系の店。 |
沙洲市場 |
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食べ物の屋台。
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敦煌市内 |
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党河周辺の夜景が美しい、との事で、再び党河へ向かいます。 |
敦煌市内 |
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先程の広場。 |
敦煌市内 |
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市内中心にある中央ロータリー。 |
敦煌市内 |
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オバサン達が踊っている。
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党河 |
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党河に架かる陽天西路の橋のたもとに広場があった。
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党河 |
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橋の上から党河の川岸風景。
写真をクリックして下さい。 |
党河 |
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河には噴水の装置が沢山設置されていて、空高く水を噴き上げていた。
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党河 |
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路上書道家。
写真をクリックして下さい。 |
党河 |
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中国将棋に興ずる地元のお父さん達。 |
党河 |
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党河の夜景。 |
党河 |
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党河の川岸の遊歩道を散歩する。 |
党河 |
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敦煌の市内は中々きれいだった。
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党河 |
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わずかに光が残り、辺りが濃い紺色に染まる瞬間。 |
党河 |
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川面に映るライトの光の彩りが美しい。 |
党河 |
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ライティングされた岸辺の遊歩道。
写真をクリックして下さい。 |
敦煌市内 |
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ホテルへの帰り道、再び中央ロータリーに建つ、ライトアップされた反弾琵琶踊人の像。
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敦煌市内 |
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沙洲市場のライトアップられた入り口ゲート。 |
鳴沙山 |
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市内から南へ5k程行くと、巨大な砂の山が見えて来た。 |
鳴沙山 |
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広場に建っていた楼閣の欄間看板。 |
鳴沙山 |
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鳴沙山は一つの砂丘を指すのでは無く、この一帯にある東西40k、南北20kに広がる砂の峰々の事を呼ぶ。 |
鳴沙山 |
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砂山に登る人達。 |
鳴沙山 |
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観光用ラクダ。 |
月牙泉 |
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鳴沙山の砂丘を奥に行くと、西の方角に周囲を砂山に囲まれた盆地が見える。 |
月牙泉 |
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時には高く、時には低く波打つ砂の海、と称される鳴沙山。
写真をクリックして下さい。 |
月牙泉 |
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月牙泉の泉の上には月泉閣と言う仏教寺院を模した建物が建つ。 |
月牙泉 |
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波紋一つ無い静かな湖面は、鏡の様に月泉閣を映し込んでいる。
写真をクリックして下さい。 |
月牙泉 |
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月牙泉の西側から東の方角の風景。 |
月牙泉 |
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砂がかぶった月泉閣の風景。 |
鳴沙山 |
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どこまでも続く鳴沙山の砂山。
写真をクリックして下さい。 |
月牙泉 |
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説明板に月泉古柳とある。 |
月牙泉 |
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月泉閣に建つ八角形の楼閣は鳴月閣。
写真をクリックして下さい。 |
月牙泉 |
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月泉閣の前から月牙泉の風景。 |
月牙泉 |
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月泉閣へは立ち入る事ができる。 |
月牙泉 |
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鳴月閣の上に人影が見える。 |
鳴沙山 |
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月牙泉東側の鳴沙山の風景。
写真をクリックして下さい。 |
鳴沙山 |
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山の頂にスームイン。 |
鳴沙山 |
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鳴沙山と月牙泉の観光はおしまい。
写真をクリックして下さい。 |
莫高窟 |
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ここからは敦煌観光のハイライト、莫高窟。 |
大泉河 |
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莫高窟へ向かう途中にある大泉河(だいせんが)。 |
莫高窟 |
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大泉河に架かる橋のたもと、碑板が建つ。 |
三危山 |
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荒涼たる地に建つ供養塔。 |
三危山 |
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莫高窟由来記の一節。 |
三危山 |
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仏教僧楽尊は旅をし、この地にやって来た。 |
大泉河 |
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大泉河によって削られた断崖が続く。 |
莫高窟北区 |
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大泉河の橋付近から見た莫高窟の北区。 |
莫高窟北区 |
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莫高窟は腕の良い画工によって掘られ、壁画が描かれた。 |
莫高窟北区 |
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画工住居窟以外にも僧侶の修行場・禅窟や、僧侶が住んだ僧房窟、墓であった遺窟などが集まっている。 |
莫高窟 |
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供養塔跡。 |
莫高窟 |
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かつての正門跡、北大門。 |
莫高窟 |
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観光客が中へ入る入り口に建つ門、小牌坊。
写真をクリックして下さい。 |
莫高窟 |
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莫高窟の通りの風景。 |
莫高窟 |
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中央は454窟。
写真をクリックして下さい。 |
莫高窟 |
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敦煌研究院院史陳列館。 |
莫高窟 |
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蔵経洞とも呼ばれる16・17窟。 |
莫高窟 |
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敦煌文書発見の話を聞いたイギリスやロシア、アメリカの探検隊がやって来て、これら遺物を本国へと持って帰った。 |
莫高窟 |
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狭い17窟に大量の古文書が隠されていた理由には、いくつかの説がある。 |
莫高窟 |
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いくつも残る石窟群。 |
莫高窟 |
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敦煌は河西回廊(かせいかいろう)の西の端に位置し、古くから西域へ行き交うシルクロードの拠点の街として栄えた。
写真をクリックして下さい。 |
莫高窟 |
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河西回廊とは漢の時代、長安の都から西へ向かい、黄河を渡った辺りから敦煌までの地域を指す。 |
莫高窟 |
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河西回廊は祁連(きれん)山脈の北側にあり、沿線には山からの水によっていくつものオアシス都市がある。 |
莫高窟 |
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これは130窟の南大仏殿。 |
莫高窟 |
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敦煌がある辺りは、古代シルクロードの東部を形成し、東部中国と西方諸国との交流を行ったルート上にある。 |
莫高窟 |
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河西回廊を漢が支配すると、漢の武帝(ぶてい)が西域への軍事拠点とし、後述する玉門関(ぎょくもんかん)や陽関(ようかん)などの要塞を建設し、敦煌は重要な街となった。 |
莫高窟 |
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交易が盛んになると、西域からラクダの背に特産品を乗せた隊商がやって来て、漢から来た絹を持って帰った。 |
莫高窟 |
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石窟内の壁画は撮影禁止なので、通路には資料がいくつも展示されている。 |
莫高窟 |
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148窟に安置する涅槃仏の資料。 |
莫高窟 |
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壁画は石窟内だけでは無く、外側の壁にも多く残っている。 |
莫高窟 |
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羽衣をまとい、天を舞う天女の壁画。 |
莫高窟 |
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莫高窟の石碑。 |
莫高窟 |
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莫高窟内の見取り図。 |
莫高窟 |
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シルクロードの東西交易を基に繁栄したのが唐。 |
莫高窟 |
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唐王朝が弱体化すると、代ってチベット族の王国、吐蕃(とばん)や、その後のチベット系民族タングートの王朝、西夏が敦煌を支配する様になる。 |
莫高窟 |
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西夏王朝の城砦都市カラ・ホト(黒水城)がモンゴル帝国チンギス・ハンによって攻め落とされ落城し、西夏王朝は滅亡する。 |
莫高窟 |
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元王朝時代になると交易路は南の海の道に移り、河西回廊を行き来するシルクロードは廃れて行った。 |
莫高窟 |
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その後、莫高窟は忘れ去られ、歴史からも消える。 |
莫高窟 |
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北大仏殿へ向かいます。 |
莫高窟 |
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96窟、北大仏殿の九層楼。
写真をクリックして下さい。 |
莫高窟 |
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北大仏殿の九層楼。
写真をクリックして下さい。 |
莫高窟 |
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北大仏殿の前は出口になっていて、広場がある。 |
莫高窟 |
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出口から大泉河に掛かる橋の方向へ向かう。 |
莫高窟 |
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こちらは天女の像。 |
莫高窟 |
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大泉河の橋の手前に建つ大牌坊。
写真をクリックして下さい。 |
玉門関 |
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莫高窟を後に、次に向かった所は玉門関。 |
玉門関 |
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泥土を固め、積み上げた四角い箱の様な形をしている。
写真をクリックして下さい。 |
玉門関 |
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玉門関は城塞でもある。 |
玉門関 |
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漢の武帝が河西回廊を支配すると、ここを河西回廊を守る防衛の要と位置づけ、軍事拠点として後述する陽関と共に建設された。 |
玉門関 |
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玉門関の中に入ってみました。 |
玉門関 |
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玉門関を出て北西へ向かい、トルファンを経て天山山脈の北側へ至るルートが、シルクロードでの天山北路、天山山脈の南側へ至るルートが天山南路となる。 |
玉門関 |
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碑板が建つ。 |
玉門関 |
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玉門関から見た、周辺の風景。 |
玉門関 |
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玉門関は最初に建設されたのは漢の武帝の時代。
写真をクリックして下さい。 |
玉門関 |
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シルクロードの交易や軍事上の要衝として重要な地となり、それ故、この地を巡って多くの王国・民族との攻防が繰り返された。 |
玉門関 |
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玉門関はシルクロード:長安-天山回廊の交易路網の一つとしてユネスコ世界文化遺産に登録されている。 |
漢代の長城 |
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玉門関から、さほど遠くない所に土のうを積み重ねた様な壁が連なっている。 |
漢代の長城 |
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今は2~3m程の高さだが、当時は6m程度であった。
写真をクリックして下さい。 |
漢代の長城 |
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泥土で造られた長城はワラを挟む層構造で積み重ねられ、非常に頑丈な建造物だった。 |
漢代の長城 |
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長城跡に残る烽火台。 |
漢代の長城 |
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のろしは狼煙と書き、狼の糞を燃やしたのが語源と言う。
写真をクリックして下さい。 |
漢代の長城 |
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長城の総延長は150kに及ぶが、多くは風化し、ゴビの砂漠に消えている。 |
漢代の長城 |
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ここ玉門関近くの長城は比較的保存状態が良く、玉門関と併せて観光する人が多い。
写真をクリックして下さい。 |
蜃気楼 |
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ゴビの砂漠に立ち昇るかげろう。 |
陽関博物館 |
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次に訪れたのは陽関。 |
陽関博物館 |
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これらの建造物は近年、復元された物で、一帯は陽関博物館としてテーマパークとなっている。 |
陽関博物館 |
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博物館に復元されている城壁。 |
陽関博物館 |
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復元された城壁にある隅櫓。 |
陽関博物館 |
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広場に建つのは張騫(ちょうけん)の騎馬像。 |
陽関博物館 |
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張騫は、我こそが適任、と名乗り出て100人程の手下と共に西へ向かった。 |
陽関博物館 |
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しかし、時代は移り月氏は匈奴とは、もはや敵対しておらず、漢と同盟を結ぶ意志は無かった。 |
陽関博物館 |
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張騫の話に、西方には素晴らしい馬がいます。走る様は天駆ける如く。流す汗は血の如く。祖先は「天馬」と伝えられます。 |
陽関博物館 |
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奥へと向かうと展示館がある。
写真をクリックして下さい。 |
陽関博物館 |
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復元された城門。 |
陽関博物館 |
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城門をくぐります。 |
陽関博物館 |
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唐の時代の詩人、王維(おうい)の石像が建ち、傍に西域へ向かう友人を見送った時の詩の碑文があった。 |
陽関博物館 |
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ここから電動カートに乗り、写真の左に見える、少し離れた所の小高い丘の上にポツンと残る烽火台跡へ向かいます。
写真をクリックして下さい。 |
烽火台跡 |
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漢代の烽火台跡。 |
烽火台跡 |
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烽火台は数キロから、見通しの良い所では十数キロごとに建てられていた。
写真をクリックして下さい。 |
烽火台跡 |
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烽火台に灯されたのろしは、隣ののろしへと次々に伝えられ、2000kもの先の長安の都には半日余りで届いたと言う。 |
烽火台跡 |
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敦煌周辺に残る烽火台跡の中では、この陽関の烽火台が最も大きく、保存状態もまだ良い。 |
陽関博物館 |
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復元された回廊。 |
陽関博物館 |
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回廊の中ほどに建つ楼閣。 |
陽関博物館 |
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烽火台跡のそばに復元されていた東屋。 |
陽関博物館 |
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東屋からの風景。
写真をクリックして下さい。 |
陽関博物館 |
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写真の様な風景からは、法顕(ほっけん)の残した仏国記の一文が甦る。 |
陽関博物館 |
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東屋からの回廊の風景。 |
陽関博物館 |
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東屋からの陽関博物館全景。
写真をクリックして下さい。 |
漢塞墻遺跡 |
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敦煌市内へ戻ります。 |
漢塞墻遺跡 |
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車窓からは漢塞墻遺跡の残骸が見える。 |
白馬塔 |
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ここは敦煌の少し郊外にある白馬塔。 |
白馬塔 |
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彼は数日間仏教を講じていたが、白馬は病気になってしまった。馬は草も食べず、水も飲まないので、クモロスは心配の余り馬屋に住み込んで馬を看護した。その夜、彼が心配して眠れない時、突然白馬は話し出した。 |
白馬塔 |
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「法師よ、私はもと西海の白竜だった。陽関に入る前は茫々たる沙漠で道は悪いので、私は特にあなたを乗せて東へ経を伝えに来た。今既に陽関に入り、道は出て、果てで無く、途中に宿駅も有るので、私はもう、お供致しません。お別れです。」 |
白馬塔 |
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白馬はそう言うと馬屋から出ようとした。 |
白馬塔 |
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そして跡には馬の嘶きの余音だけが残った。クモロスがよく見ると、眼前の白馬は地上に倒れ息が絶えていた。クモロスは心を痛め、白馬のために祭壇を設けて九日間祀った。経を講じて資金を集め、普光寺境内にこの白馬塔を建てた。 |
白馬塔 |
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最初の塔は4世紀末の塔で、その後度々建て直された。
写真をクリックして下さい。 |
沙州故城 |
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白馬塔近くにあった沙州故城の一部。
写真をクリックして下さい。 |
敦煌空港 |
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敦煌の観光はおしまい。 |
敦煌空港 |
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敦煌空港の飛行場内側のターミナルビル風景。
写真をクリックして下さい。 |